古/いにしえの面影       其の九百四拾五

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2008年01月01日 火曜日
アップ日  2013年07月04日 木曜日
千葉県館山市(鶴谷八幡宮・館山城)
 「上総」の名称と由来
『古語拾遺』によると、よき麻の生きたる土地というところより称したとされる捄国(ふさのくに)から分立したという。
分立の時期については、『帝王編年記』では上総国の成立を安閑天皇元年(534年)としており、
毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある。

6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれ、後の安房国も併せ8つの国造の領域が存在しているが、
ヤマト王権からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)として把握されていたものと考えられ、
ヤマト王権と緊密なつながりを有していたともされている。
藤原宮出土木簡に「己亥年(699年)十月上捄国阿波評松里□」とあり、
7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されるが、大宝4年(704年)の諸国印鋳造時には「上総」に改められた。
読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かずさ」に訛化した。
本地域が位置する安房地域は718年(養老2年)に上総国から分かれ、
明治初期まで安房国と呼ばれていた。
かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。

戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、
戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。
江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年(慶長19年)に改易され、
以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。
現在の館山市は1939年に新設合併で誕生したものである。
1939年(昭和14年)11月3日 - 安房郡館山北条町、那古町、船形町が合併・市制施行し、館山市を新設
(千葉県内では千葉市、銚子市、市川市、船橋市に次いで5番目の市制施行)。
1945年9月3日 - 4日間にわたり本土で唯一、GHQによる軍政が敷かれた。

(Wikipediaより)


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久里浜港から
東京湾フェリーに乗り

※プー太は畳んで手荷物状態。

海獺島
燈台が~

※小さな白波は冬の日常~

遠く富士山が三浦半島越しに
正面に見えます。



浦賀水道

※房総半島間近

鋸山の麓

※波は荒目~

お迎えありがとうございます~

※pinponさん

富士は顔を隠して~

※波濤は~
 
この写真は、富津市竹岡あたりで見た
お盆のお迎え(2009年8月)
三浦半島でも
オマケです!


長狭街道(千葉県道34号鴨川保田線)
昔からの東京湾と太平洋を結ぶ幹線だったとか。
常夜灯・石灯籠は街道の証。

※この辺りは、昔から
隠れた良い米の産地とか…
蔵付きの家屋も~

ありゃ~
残念な風景~

※石灯籠は昔から

日露戦争記念碑
勝ち戦です。
でも、主戦地は中国本土と日本海。。。

※鶴谷八幡宮参道

水田 三喜男像
(みずた みきお、1905年4月13日 - 1976年12月22日)は、
日本の政治家。城西大学創立者。
大蔵大臣を数度に亘り務め、戦後日本の代表的な財政家である。
(Wikipediaより)

※鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)は、千葉県館山市に鎮座する神社。
安房国総社。
品陀和気命(応神天皇)、帯中津彦命(仲哀天皇)、息長帯姫命(神功皇后)を祭神として祀る。

平安時代初期、国府近くの三芳村府中(現在の南房総市)に安房国総社として創建された。
鎌倉時代に入ると総社信仰が衰微し、代わって源氏の影響で八幡神信仰が高まったため、
総社から改変され八幡宮となり、当初の位置から遷座するに至ったという。
康応2年(1390年)には、安西八幡宮の名で資料に見える。

中世には里見氏、江戸時代には徳川幕府の崇敬を受け、社殿奉納や社領寄進を受けている。
明治6年(1873年)には郷社、昭和15年(1940年)には県社に列せられた。
創建1000年を迎えた昭和51年(1976年)の本殿改修に当たって、鶴谷八幡宮と改称している。
(Wikipediaより)

鳥衾の飾り瓦がいいですね。


イヌマキの大木



拝殿舎木鼻獅子
寺院風の柱飾りも。

※八幡宮破風上部は
龍だらけ!
荒ぶる波を表しているんでしょうか?

※一齣ずつを切り取ったら
パラパラ漫画になりそう~

※安房神社遥拝殿
遥拝石は良く見るのですが~
これだけ大きな拝殿は初めてです。

一の鳥居と二の鳥居
5台の山車と御船が祭時には
境内に勢揃いするとか~

※汐入川渡って~

館山城
1580年(天正8年)、里見義頼によって築城された。
その後、1614年(慶長19年)に里見氏は鳥取県倉吉に改易され、館山藩は取り潰しとなった。
この際に館山城も廃城となり、破却された。
後の1781年(天明元年)に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入ったが城を再建することはなく、
2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。

現在建つ天守は、後に犬山城を模して1982年(昭和57年)に再建された模擬天守であり、
当時の天守の概要や外観については不明である。
この天守は現在、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)として利用され、周辺は城山公園となっている。
(Wikipediaより)


※城山から
南房総の山を~

館山湾
大房岬の向こうに
三浦半島が~

※東京湾の出入船のチェックが一望ですね。

太陽を見ないでね!
夕日のスポットとか。

※富士山が~
見えんか、残念。

夕日が
向こうに沈めば
絵になるのでしょうが~

※残念ながら
右側に振ってます。

店仕舞中~

※遠く
丹沢や南アルプスも見えるとか~

浅間神社

※約70mの城山

里見家は
群馬県高崎市出身、
南総里見八犬伝で有名になり
鳥取県倉吉市に~

※夕日に輝く天守閣

二階の軒が低い御家

※飾り瓦
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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