古/いにしえの面影       其の九百四拾四

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2008年01月01日 火曜日
アップ日  2013年07月03日 水曜日
神奈川県横須賀市久里浜(ペリー上陸の碑)
 江戸時代、平作川の河口に位置する久里浜は、
もともと川と海が混在する湿地であまり人も住まない地であったが、
1660年(万治3年)に砂村新左衛門が8年間かけ新田(内川新田)を開発した。
難工事だったらしく、地元には人柱伝説も残っている。
しかし、工事のおかげで飛躍的に石高が上昇したという。
怒田城跡から浦賀へ向かう丘陵地帯を御林(おんばやし)といい、
浦賀奉行を支配した江戸幕府の御用林で、江戸大火災時の復興に利用された。
嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀に位置する浦賀奉行が協議の結果、
来航したペリー艦隊の陸戦隊300人と交渉し、この地でアメリカ側の親書を受け取った。
当時の久里浜はただの漁村だったというが、岬を隔てて浦賀に隣接し、
大人数が集結するに適した浜があったため上陸の地に選ばれた。

(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

家内の実家から大楠山横抜けて~
レトロな駅舎のJR衣笠駅を横目に~

※平作川沿いを~

夫婦橋の上から~

※上流側を望む

夫婦橋の歴史は、およそ350年前(1667年)の内川新田開発工事までさかのぼります。
この工事で造られた、海水の逆流を防ぐ水門が夫婦橋の始まりです。

昔は中央に中州があり、二つの橋が夫婦のように仲良く架かっていました。
(現在の人道橋あたり) 又、1825年頃の記録によると。
一つの橋の長さは約30m、幅は24m程でした。
材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていました。

昔の夫婦橋(水門)は、平作川の洪水で幾度も流されていました。
そこで貧しい人夫の美しい娘が「神の怒りを鎮めるため」に犠牲になって、橋の下に埋められました。
その後、夫婦橋は大雨が降り続いても流されなくなったという伝説。
実話かどうかはわかりませんが、昔からの人々が、平作川を治め、
夫婦橋を守るために大変苦労してきた様子を伺うことが出来ます。
読みにくいですが~(看板より)


※本日
お供はプー太。

御陵威橋(みいつばし)読めんがな~
対岸は自衛隊(旧海軍通信学校)
立派な鋼鉄の橋

※横から~

河口部分に近づいて来ました。

※係留船が多い~

長瀬人道橋

※東京湾の入り口に辺ります。
対岸は房総半島

浜辺は昔からの~
えっ?関東大震災での隆起で
地形が違うって。。。

※鋸山も~
海獺島も見えます。

穏やかな日だったので
水遊びをする人も~元日です。

※横須賀火力発電所の煙突も~

北米合衆国水師提督伯理(ペリー)上陸記念碑

※ペリー提督胸像

当時のハイネ画
上陸の図
沖の黒船
岩場も有ったんですね。

※当時の狂歌

太平の眠りを覚ます上喜撰(茶)
たった四杯で夜も眠れず

坂本龍馬も見たんでしょうか?

伯理記念碑
昭和10年銘
まだまだアメリカに対する風当たりは弱かったの?

※帆船の風見鶏

三浦半島を回られてるそうで~
アルプスランドナーだったような。。。
御気をつけて!

※旅館も~

正面

※裏面
COMMODORE PERRY

東京湾フェリー
金山丸

※船内展示
南総里見手作づくり甲冑

紙と布で作ってあるとか~

※宜しいなぁ~

気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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