古/いにしえの面影       其の九百九拾四

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2010年09月25日 土曜日
アップ日  2013年09月05日 木曜日
岐阜県揖斐郡揖斐川町春日六合
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉歿。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より京都七条烏丸に四町四方の寺領が寄進され、
七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を、その地に移す。
慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、東本願寺が分立する。

一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられた事のある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、
教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。

現在の真宗大谷派はこの時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも
各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、
本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。
徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」
という見解を示している。

東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、
『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、
前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、
また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、
寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、
むしろ両本願寺の宗政を安定させたとも言える。
(Wikipediaより)

福井県と岐阜県(日本海と太平洋の分水嶺)の
冠山(1256m)に工事中で登られへん?
ほならシャーナイから鍋倉山(1049.9m)へ!

行け行け!CCC(CHICKEN-CLIMBERS-CLUB・チキンクライマーズ倶楽部)

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粕川(表川)沿いを~
里山風景

※光るススキ

秋色~段々宅地

※山沿いの集落

道路幅に合わせた軽車両(名称不明)
ミゼットより車幅が狭そう~



軒下の大きなスズメバチの巣!
穴が開いてるので
蜂は、いないと思いますがね。。

※粕川沿いの道路です。
階段下には斜面を利用した茶畑が…

北側斜面に広がる全戸南向きの集落

※川を挟んで向側(北側)の斜面には
砂防ダムの波が~
工事中!治水(治山)ですね~

川沿いの集落
絵になりますよね~Kさん

※あの寺院まで行きます。

河川敷は工事の進入路

※下ヶ流茶生産組合

甍の波ですね。

※井戸の神様

段々宅地も~

※左の段々圃場?
斜面の補強?
先は工事中行き止まり。。。
隣接の滋賀県との県境は伊吹山(1377m)

香流山遍光寺さん

※参道

春日村六合遍光寺の鐘楼
村の名称含めて文化財ですね。
(春日村は明治からの名称~平成期に町村合併で消滅)

※教如上人御足跡石
教如上人 御清水潤いの水看板より
時は戦国1600(慶長五)年8月下旬教如上人(43歳、後の東本願寺初代法主)は帰洛の途中、
美濃の国まで来られた時、関ヶ原合戦で陣地を構える石田三成の追手にあい
宮地村(池田町)市場村(揖斐川町)を経てこの地に来られました。
これより先は道も狭く馬では行けないので馬からおり、わらじを脱ぎ路傍の石に右足を下された時、
その石に足の跡がはっきりと残り現在、下ヶ流偏光寺に御足跡石と言い伝えられ保存。
この地の御清水で心を潤され春日の各寺院を廻り美束の鉈ヶ岩屋におかくれになり難を逃れられました。


鐘楼

※本堂
木鼻・飾りの獅子

寺は村中の凸地の上に~
南北どちらからも石段で~
山が迫っています。

村中の道



土蔵も~

※屋外雪隠?


煙抜き
屋根の雪止も~
冬場は積もるのでしょうね。



画面上側には茶畑が~
村外れの煉瓦煙突は??



雪印ローリー…

※向こうの山の切土は白っぽい…
石灰岩でしょうか?
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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