古/いにしえの面影       其の九百拾弐

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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 撮影日  2009年07月30日 木曜日
アップ日  2013年06月20日 木曜日
大阪市中央区森之宮中央(鵲森之宮神社)
鵲森宮(かささぎもりのみや)は、大阪府大阪市中央区にある神社である。
式内社で、旧社格は府社。通称を森之宮神社(もりのみやじんじゃ)といい、
周辺の地名である森之宮の由来となっている。
聖徳太子の両親である用明天皇・穴穂部間人皇后、および聖徳太子を主祭神として本社に祀り、
奧社に天照大神・月読命・素盞嗚命を祀る。

聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。
戦勝後の崇峻天皇2年(589年)7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、
その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。
四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。

『日本書紀』の推古天皇6年夏4月に、聖徳太子の命により新羅へ渡った
吉士盤金(きしのいわかね)が2羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。

その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになり、
ついには当社の社名となったと伝える(「難波の杜」は、他に生國魂神社なども比定地となっている)
(Wikipediaより)

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向日葵の季節

※城南公園

北国分町旧跡碑

※北国分町の由来
この地は江戸時代前期元和(1615)頃
摂津の国府、古代難波津で
朝鮮中国の使節を迎える迎賓館として難波館が設けられた。
摂津名所には鴻臚館古址の頃国分町にあり、
当地は其の昔国府町を国分町と言訛ると伝う。
近世初期伏見町人が移住し三大組の北組に属す。
明治三十年四月大阪市東区に編入。
明治三十三年四月北国分町と改称す。
昭和五十四年二月(1979)森ノ宮中央一丁目と改称す。
今より約三百六十五年前由緒ある地名である。
昭和五十五年十月建之

北国分町有志一同


プールの季節
プールの有る公園
子供たちの声が弾けます!!

※労働会館

式内社なんですね。
カササギ

※裏門

 読めん…



拝殿社正面

※手水鉢

末社五幸稲荷
宇賀御魂命を祀る
日本唯一の稲荷社とか。


 
五幸稲荷


 
『鵲之 渡瀬瑠橋迩 置久霜乃 白気乎見者 夜曽更仁来』
かささぎの わたせるはしに おくはしの しろきをみれば よぞふけにける
大伴家持

拝殿社前の
狛犬


※吽

なんかチンチクリン~



狛犬台座を見たら~
大東亜戦争時に青銅製の狛犬を供出し
替わりに昭和19年に献納したとか。

※新作ですか~

田沼玄蕃頭源朗臣意尊銘
水戸天狗党との関係も~

※安政2年
天狗党の乱の前ですね。

 森ノ宮蓮如松
芳瀧画
宮の前にあったのでしょうか?

※おおさか散策

へぇ~
可愛い太鼓橋

※この森の前には天の川が流れ
鵲橋が明治まで在ったとか~


新大和川付替え時に川は無くなったとか。

※蘇我氏(仏教)と物部氏(神祇崇拝)の争いが起き、
それを避けて仏穴穂部間人皇后(聖徳太子母)は京都府北部の丹後半島の大浜の里(間人)に難を逃れた。
『大浜の里に昔をとどめてし間人(はしうど)村と世々につたへん』
丹後半島に大浜の里を「ご退座」される時に「はしうど」ではなく「たいざ」と読み伝えることと成りました。


大和言葉の伝道者
石崎正明宮司



亀■?

気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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