細工谷遺跡は難波宮の南方2km弱にあり、推定朱雀大路跡の東隣に位置する。
平成8年度の発掘調査によって、難波京内で全く空白であった地域に「百済尼寺」という古代寺院の存在が確認され、
全国で初めて和同開珎の枝銭が出土した。
枝銭が出土した溝からは、和同銭をはじめとする多量の銅製品・鉄製品、
さらに銅板・銅塊・鉛板・方鉛鉱などの金属器素材や鉱滓類といった金属加工に関わる遺物も多量に見つかった。
また、別の遺構からは府下で初めての出土となる富本銭が見つかっている。
さらに、尼の父の名前を記した木簡や、「百済尼寺」の存在を示す墨書土器の出土が注目される。
これらは古代仏教史や難波地域における渡来系氏族のあり方、銭貨の鋳造と流通といった、
重要な課題に直結する資料であるといえる。
枝銭は湯口から伸びる鋳棹に6枚の和同開珎が取り付いている。
鋳棹は断面形が楕円ないしカマボコ形で、下端を欠損している。
和同開珎の鋳造工程を具体的に示している。銅の純度は96~98%と高く、重さは78.9gである。
枝銭と一緒に出土した和同開珎には、18点の完形品があるが、
そのほかは鋳バリが残るバリ銭や破片で、未完成品・失敗品である。
完形であっても、重さに 1.45~2.91g、直径で23.7~25.2mmのばらつきがある。
成分分析でも銅の純度にばらつきが大きく、また本来含有する錫が極端に少ないことから、
通常の和同開珎より品質がかなり劣ったものとみられる。
富本銭は和同開珎に先行する我が国最古の鋳造貨幣である。
奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から多量に出土したが、それ以外の出土例は限られる。
木簡の1つには「上和尼父南部□□王久支」とあり、「上和尼」という尼の名前に続いて、父親の名が記される。
尼寺への一般男性の通行は規制されていたため、この木簡は「百済尼寺」に出入りするための身分証明であったと思われる。
そのほかの木簡には「千字文」から写した「逐物意」木簡、「播磨国」木簡、「□月八日」木簡がある。
墨書土器には「百済尼」・「百尼寺」・「百尼」といった「百済尼寺」に関連するものが多数含まれ、
そのほかに「四月八日」・「東井・福」や葉っぱの絵などがある。
出土遺物(一括186点)については、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で常設展示されている。
(天王寺区HPより)
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