古/いにしえの面影       其の九百四拾壱

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2004年01月02日 金曜日
追加撮影  2010年01月01日 金曜日
アップ日  2013年07月03日 水曜日
神奈川県横須賀市芦名(芦名城やぐら)
 三浦半島は2000万年から1500万年前に太平洋の深海底で太平洋プレート上に降り積もった堆積物に由来する。
太平洋プレートが海溝において大陸プレートの下に沈み込む際に堆積物は剥離して積み上がり
(このような地質構造を付加体という)、
約50万年前には海面上まで隆起し、三浦半島や房総半島のもととなった。
この後、北上するフィリピン海プレート上の伊豆半島が日本列島に衝突したエネルギーで、
三浦半島は時計回りに回転し現在の形状となった。
隆起は現在も続いており、関東大震災の折には城ヶ島周辺の広い範囲で海岸線が数メートル隆起している。
地質的にはほぼ全域が第三紀層に属する。
またおよそ西北西 - 東南東方向に走る衣笠断層帯、北武断層群、武山断層帯、
引橋断層の4箇所の活断層が存在し、
三浦半島断層群と呼ばれる。植生は常緑広葉樹林。

三浦丘陵が半島中央に走り、最高峰で標高241mの大楠山、横浜市の最高地点である円海山を擁する。
東京湾・浦賀水道に面して横須賀港や久里浜港、三浦海岸があり、半島西部には小田和湾や小網代湾がある。
半島南端には城ヶ島が付属する。三浦海岸一帯を除いて海岸線は比較的複雑で、
入り江を利用した漁港やマリーナ、海水浴場が数多く存在する。

古代の律令制度では、東海道相模国に属する。
『日本書紀』には、「御浦」と記されている。

中世には頼朝の挙兵に従った三浦氏の領国であった。
三浦氏は北条時頼の時代に宝治合戦で宗家が滅ぼされた。
以後半島の北の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、
半島内に閉じ込められる形となった。

(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

家内の里での
いつもの散歩道
気になる景色です。

※畔道にしたら
舗装されてるし~
行きましょう!

石切り場跡と思ってました。

前にも

ん?岩屋

※多くの(約200~300体)の
小さな石仏像(約40cm)が
祀られています。
前に出会った北条の五百羅漢さんとは~
雰囲気が違いました。

四段の雛壇のように
造られています。

※何も書かれた物はなかったので
昔からの墓地だとピンときました。

 
岩窟の中央には
地蔵菩薩様(?)

※ただ支え棒が
木製なので心許無い~

不動尊も~



岩窟の石材とは少し違うような~
砂岩でしょうが…



岩窟の外に近いものの
彫りがコナレてるのは仕方ないですが、
内部のものも~

※石材の性質ですかね。

時代のせいでしょうか?

※よく見ると
脇に文字が~
祀られた方の名?



※岩に埋もれそうなものも~

観音様でしょうか?
宝珠も~

※石版もあります。

地蔵様・仏様・観音様
時代時代の流行りでしょうか?



石像材料も
時代考証の一つでしょうか?

※彩色された跡も~

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

※木造物
位牌でしょうか?

正月飾りも~



壁には
彩色された跡はわからない~

※私が見慣れたものは地蔵様なんですが~

大きな岩と岩の間には家屋が~



岩窟の入り口

※切りだされた岩の名残が
畑の脇に転がってました。

髭が見えますね。
指の表現も細かい~

※朽ちかけたものも~

仏像の御顔の割に
線引文字が
生々しく残っています。



西漂(濡?)賀
読めない~

※役所でも大学でも
調査はされてるんでしょうか?

コナレる前に~

※ねぇ~

目立たないですが…

※残してほしいものです。

隣の民家は軒が擦れそう~

※講中が有ったんですね。
(何の?)

こちらも岩窟?

※先程のに集めたんでしょうか?
名残の~

此処にも…

※多宝塔の頭でしょうか?

海の底だったなんて~

※自然と人の営みの
コラボレーション!

ここから 追加資料~
六年後のある日
もう一度お参りと~

※恐れていたことが…
天井盤が崩れてます。

 表に居てた仏像だけが~
で、資料のために
多くの写真を載せました。

※中は~
何とか成りませんかね?
市役所さん。。
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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