其の九百参拾九
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
撮影日 2010年08月15日 日曜日 アップ日 2013年07月02日 火曜日 |
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久里浜港から北西にある丘陵地帯から遺跡や遺骨などが多数出土しており(吉井貝塚、八幡神社遺跡など)
弥生人より伝えられた稲作が行われた形跡が発見されている。 中世の三浦半島は、現在の衣笠まで内海が続いていた。 鎌倉幕府の重臣であった三浦氏の領地となった。 現在の舟倉付近の丘に怒田城(沼田城)を根城とする水軍の拠点が築かれた。 三浦氏は宝治合戦で北条氏により滅ぼされ、北条氏の支配地となる。 江戸時代、平作川の河口に位置する久里浜は、もともと川と海が混在する湿地であまり人も住まない地であったが、 1660年(万治3年)に砂村新左衛門が8年間かけ新田(内川新田)を開発した。 難工事だったらしく、地元には人柱伝説も残っている。 しかし、工事のおかげで飛躍的に石高が上昇したという。 怒田城跡から浦賀へ向かう丘陵地帯を御林(おんばやし)といい、 浦賀奉行を支配した江戸幕府の御用林で、江戸大火災時の復興に利用された。 嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀に位置する浦賀奉行が協議の結果、 来航したペリー艦隊の陸戦隊300人と交渉し、この地でアメリカ側の親書を受け取った。 当時の久里浜はただの漁村だったというが、岬を隔てて浦賀に隣接し、 大人数が集結するに適した浜があったため上陸の地に選ばれた。 明治 - 敗戦 維新後は帝都防衛の要として、横須賀の他の地域同様軍事施設が多く作られた。 1938年(昭和13年)に現在の久里浜駐屯地の前身にあたる海軍通信学校が開校した。 1942年(昭和17年)に東京急行電鉄(大東急)により、久里浜駅(現在の京急久里浜駅)が開業する。 2年後の1944年(昭和19年)には、軍事目的で建設された横須賀線久里浜駅が開業する。 また首都から近く、多数の兵員の上陸が可能な浜であることから、本土決戦での両軍の米軍上陸想定地点となった。 戦後・現在 敗戦後、旧日本軍施設は米軍に接収されたのち返還され、 法務省、国土交通省、自衛隊などの施設・研究所、文教施設、工業団地などに生まれ変わった。 埋め立て地には、3本煙突がランドマークとなっている横須賀火力発電所が立地し、 東京湾フェリーの就航によって房総半島への玄関口としての役割も担うようになった。 残っていた田畑は姿を消し、平野だけでなく丘陵部にも宅地開発が進んだ。 このため東京、横浜のベッドタウン化が進み人口は急激に増加した。 現在はくりはま花の国やペリー公園など観光施設の整備、 「久里浜ペリー祭」といったイベントの開催など「開国の街」として魅力的な町づくりが進められている。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい) 気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで! いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
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